自由と責任

日曜の夕方、数学を勉強しながらゆったりとした時間を過ごしている。今日の夕飯は何にしようか。

 

今日は、昨日考えていた自由と責任について備忘録として書きなぐっておきたいと思う。

 

僕は、昔から「自由」という言葉の響に憧れてきたと思う。

 

好きなことを気ままに。まさに遊んでいるような立ち振る舞いに、よくも分からず憧れていたような中学時代だった。

 

いま社会人として、生きるためにしなければならない労働に従事して改めて思う。

 

毎日8時間働かなくとも、生活できるだけの日銭を稼いでもっと時間的な自由を獲得すればよいのではないかと思っている。僕はおそらく、それほどお金を稼がなくても満足できる。

 

一方で、この生活を実現したとして、それは果たして「許されること」なのだろうか?と考えていた。

 

もちろんこの「許されること」というのは、何かしらの判断基準が必要だ。

 

 

個人の人権の観点で言えば、全くもって許されると思う。職業選択の自由はもちろん、僕がどこに住もうがどんな余暇を過ごそうが、この日本国が僕の自由を奪う正当な理由はない。

 

ただ、僕が気にかかっているのは、「国家の秩序の維持」とでも言えばいいのだろうか。そんなことを漠然と考えている。

 

間違いなく、「国=人」だ。

そこは揺るぎないと思う。

 

そして、僕はこの日本という国に育ててもらい、今も様々な恩恵を受けている(親にも感謝している。もっと親孝行しないと)

 

そして、今の日本は偉大なる先人たち一人一人の努力によって僕たちの世代に引き継がれている。

 

このような生を受け取っておきながら、次の世代にこの国を引き継ぐという責任が僕に無いことがあろうか?と考えている。もちろん、その責任が僕にはある。いや、国民全員にある(もちろん、病気など個人の努力を超えた障害等がある場合は該当しないと思う。何事も支え合いだ)。

 

こうした責任から目を背けて、自分の自由にだけ興味を向けているのは、はっきり言って下品な態度ではないだろうか。この日本を守ってくれた先人たち一人一人に、「僕は自分らしく気ままに生きます〜」なんて無責任なことを、僕は言えるのか?

 

 

いや、僕は言えない。

この責任からは逃げちゃいけないと思う。

 

会社は辞めたって別にいいと思うし、嫌なら逃げればいいと思う。だけど、国を維持するこの責任からは逃げたくない。

 

であるなら、僕は何かしらの形で、人を育てることや税金をきちんと納めること、より暮らしやすい町を作ることで国に貢献していくことを考えて行動しないといけない。

 

その役割と、自分の求める自由のバランスを探って生きていかねばならない。

 

それは必ずしも、労働者として働くことではないかもしれない。ただの選択でしかないし、その選択は文字通り自由にしたらいい。

 

 

たが、この責任からは目を背けては行けない。

この責任から皆が目を背けていることが、背けざるを得ないことが、少子高齢化で苦しんでいる我が国の問題の本質なのではないだろうか。

 

明日から新年度。

 

ロールモデルは探さない。僕なりの自由と責任の果たし方を探っていきたいと思う。

 

 

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あ〜あ、どこかに楽に稼げるいい仕事ないかなぁ〜笑笑笑