労働について考えている

最近、労働についてよく考える。

 

別に仕事で悩んでいる訳では無い。

 

人よりほんの少しだけ得意なことを仕事にできている。

 

1人で暮らすには十分な給料を貰っている。地方なら家族も養えると思う。

 

スキルアップして行けるとも思うし、同僚も良識のある人ばかり。

 

裁量労働かつフルリモートで通勤のストレスもなく、好きな土地に住み続けることができている。

 

ざっと今の僕の恵まれた状況を文字に起こしてみた。間違いなく運が良いと思う。

 

でも、だからこそ欲が出たり、隣の芝が青く見えてしまうのが人間の性(さが)なのかもしれない。

 

今のモヤモヤした感情を一言で言えば「労働者と資本家の格差」に集約される気がする。このことについての考えを思いつくままに書き殴りたいと思い、このブログを書いている。

 

僕のような一般の会社員は、企業と労働契約をして週5日、1日8時間程度の労働に従事していると思う。(もちろん人によって状況が異なるのは百も承知)

 

その労働は、何を目的に行われるのだろうか?

 

労働者の視点で言うと、自己実現だとか社会貢献だとか、労働を過度に神格化したような信念を持って取り組んでいる人もいると思う。

 

少し揶揄したような言い方をしてしまったが、それ自体は個人の考え方なのでなんとも思わない。むしろ羨ましいと思う。そんなふうに労働を考えることが出来なかったから、僕は今この文章を書いている。

 

話を戻そう。

 

僕個人は、現在の日本を始め多くの国における資本主義社会においての労働は、単に資本家がより豊かになるための活動でしかないと思う。資本家の富を豊かにするためのひとつの道具として、僕たち労働者の「労働力」が使われていると考えるのが、1番直接的で理解しやすいと思っている。自己実現だとか社会貢献だとかは、その付属物と考える。

 

目的なのか結果なのかは議論の余地があると思うが、事実としてそのような状況を生み出しているのが今日の社会だと思う。

 

僕たち労働者は、資本家のために労働力を提供し、その対価として賃金を受け取っている。

 

もちろん、資本家たちも労働者が集まらなければ自分のビジネスを継続することが出来ないので、それなりの待遇を用意する。少子高齢化が進んでいる現状や、労働が高度化した今となっては、より待遇が良くなった人も多くいるかもしれない。

 

でも、基本的な構造は変わりようがない。

 

僕らは、資本家の私腹を肥やすために働いている。

 

この一点に僕はモヤモヤしている。

 

みんなこの点を考えないように目を逸らしているようにしか、僕には見えない。

 

まるで、自分だけは死なないとでも考えているような愚鈍さを感じる。

 

もちろん、今の社会を維持・発展させていくには多数の労働者が必要だ。日本国憲法に示された国民の義務は、「勤労」「納税」「教育を受けさせる」義務だ。国はすなわち、人だ。だからこそこの3つの義務は全て、今の国および社会構造を維持・発展させていくための基礎と受け止めている。そしてこれらは、多数の労働者によって支えられている。

 

そう、労働者は国を支えている。間違いなく。

 

ただ僕はモヤモヤしている。

一日の大半を好きでも無い労働に費やし、僅かばかりの賃金を貰い、限られた余暇を楽しみ、そしてまた資本家のために働く。

 

だからこそ僕は、資本家の側に回らないといけない。

 

自分の労働力を提供する活動ではなく、自らリスクを背負って資本を提供し、他人の労働力を使った活動をしなければならない。

 

資本家の側に回ることはもちろんリスクがある。ただ、この今の社会構造に乗っかりながら、僕の生活そのものをガラッと変えて、より豊かに自分の人生を歩んでいくためには、ずっと労働者でいてはならないと思う。

 

今の自分が1番若く、今の時間がなによりも尊いものだから。

 

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ふう。あんまり纏まらなかったし、全部思いついたことをかけたわけではないけど、こんな所にしておく。

 

要は、人の言うこと聞いて働きたくないなって愚痴を言っているだけです。

 

ただ、自分がどんな構造の中で生きているかを考えることは、自分の人生を戦略的に生きていくのに非常に重要なのではないでしょうか。

 

 

おしまい。今日も皆さんの一日が素晴らしいものでありますように。