目標

会社員、労働者という今の延長線上には僕の目標を置くべきではないなと思う今日この頃。

 

だとしたら、何を目標にするべきなんだろうな。

今まで考えてきたことを乱暴に要約すると、

 

  1. スモールビジネスを始める資金を貯める
  2. 趣味のコミュニティに参加する
  3. 結婚する

 

かなと思う。

 

結局、「搾取されている」と感じてしまった時点で、もうあの頃には戻れない。それが人間としての成熟なのか、堕落の始まりなのかは知らない。知りたくもない。もう気づきたくない。

僕は嫌なやつでした

最近できた年上の良き友人に色々自分のことを話していた。

 

とても包容力があり、気を許した友人でした。

 

だからこそ気が付きました。

僕は「嫌なやつ」でした。

 

素直じゃない、

 

言葉遣いも良くない、

 

他人に興味が持てない、

 

本質的に優しさがない。

 

 

今日の自分の一挙手一投足が「嫌なやつ」そのものだったように感じて、とても自信を無くしました。

 

それなりにまともな人間なのかなと分析していましたが、全部が見当違いでした。

 

僕は、ただの「嫌なやつ」でした。

 

 

他人からの評価を気にしていた

今日も今日とてお仕事です。

自分なりにできることを頑張っております。

 

さて、なんだか憂鬱になりそうなプロジェクトを担当することになり、モヤモヤした気持ちを抱えながらお昼ご飯を食べていました。その時にふと、思いついたことがあります。

 

 

もしかして僕、めちゃくちゃ他人の評価を気にしてるな?

 

 

納得半分、意外が半分という受け止め方をしました。

 

学生の頃はいわゆる真面目な優等生で通ってきたので、先生や大人の顔色を伺いながら窮屈に生きてきました。なので、大人になってもどこか他人の顔色を伺い、ビクビクしながら仕事をしている所があるなと感じていました。

 

一方でこの2〜3年は、労働者である事がなんだか嫌になり、もう他人軸で生きるのは疲れたなと思っていました。そんな意識を持ちながら生活をしていたつもりでしたが、会社という空間ではまだ僕は周りの目を気にしてる素振りがありました。その事にストレスを感じていて疲れてしまったなという気づきを得ました。

 

気づいた瞬間はとても気が楽になりました。

自分に少し優しくなれた気がしました。

 

しかし、なぜ未だに他人の評価を気にしてしまうのでしょうか?

 

僕自身のプライドの高さもあるかもしれません。

あまり自分で認めたくないですが、僕はプライドが高いように思っています。特に、バカにされたくないという気持ちが自分の基礎にある気がします。

 

気が強い方ではないので、そんなプライドを奥底に閉じ込めてビクビクしながら生活をしているように思っており、そんな自分を職場で観測してしまったんだなと振り返っています。

 

さて、気づいたところで問題は解決していない。流石にストレスがじんわり長く続いてしまうので、早めに対処をしたい。これを書いている今も、なんだか胸が苦しいです。

 

もう昼休み終わりそうなので、今回のブログはこの辺で。

 

また上手い対処法が見つかれば書き残そうと思います。

 

 

 

 

自由と責任

日曜の夕方、数学を勉強しながらゆったりとした時間を過ごしている。今日の夕飯は何にしようか。

 

今日は、昨日考えていた自由と責任について備忘録として書きなぐっておきたいと思う。

 

僕は、昔から「自由」という言葉の響に憧れてきたと思う。

 

好きなことを気ままに。まさに遊んでいるような立ち振る舞いに、よくも分からず憧れていたような中学時代だった。

 

いま社会人として、生きるためにしなければならない労働に従事して改めて思う。

 

毎日8時間働かなくとも、生活できるだけの日銭を稼いでもっと時間的な自由を獲得すればよいのではないかと思っている。僕はおそらく、それほどお金を稼がなくても満足できる。

 

一方で、この生活を実現したとして、それは果たして「許されること」なのだろうか?と考えていた。

 

もちろんこの「許されること」というのは、何かしらの判断基準が必要だ。

 

 

個人の人権の観点で言えば、全くもって許されると思う。職業選択の自由はもちろん、僕がどこに住もうがどんな余暇を過ごそうが、この日本国が僕の自由を奪う正当な理由はない。

 

ただ、僕が気にかかっているのは、「国家の秩序の維持」とでも言えばいいのだろうか。そんなことを漠然と考えている。

 

間違いなく、「国=人」だ。

そこは揺るぎないと思う。

 

そして、僕はこの日本という国に育ててもらい、今も様々な恩恵を受けている(親にも感謝している。もっと親孝行しないと)

 

そして、今の日本は偉大なる先人たち一人一人の努力によって僕たちの世代に引き継がれている。

 

このような生を受け取っておきながら、次の世代にこの国を引き継ぐという責任が僕に無いことがあろうか?と考えている。もちろん、その責任が僕にはある。いや、国民全員にある(もちろん、病気など個人の努力を超えた障害等がある場合は該当しないと思う。何事も支え合いだ)。

 

こうした責任から目を背けて、自分の自由にだけ興味を向けているのは、はっきり言って下品な態度ではないだろうか。この日本を守ってくれた先人たち一人一人に、「僕は自分らしく気ままに生きます〜」なんて無責任なことを、僕は言えるのか?

 

 

いや、僕は言えない。

この責任からは逃げちゃいけないと思う。

 

会社は辞めたって別にいいと思うし、嫌なら逃げればいいと思う。だけど、国を維持するこの責任からは逃げたくない。

 

であるなら、僕は何かしらの形で、人を育てることや税金をきちんと納めること、より暮らしやすい町を作ることで国に貢献していくことを考えて行動しないといけない。

 

その役割と、自分の求める自由のバランスを探って生きていかねばならない。

 

それは必ずしも、労働者として働くことではないかもしれない。ただの選択でしかないし、その選択は文字通り自由にしたらいい。

 

 

たが、この責任からは目を背けては行けない。

この責任から皆が目を背けていることが、背けざるを得ないことが、少子高齢化で苦しんでいる我が国の問題の本質なのではないだろうか。

 

明日から新年度。

 

ロールモデルは探さない。僕なりの自由と責任の果たし方を探っていきたいと思う。

 

 

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あ〜あ、どこかに楽に稼げるいい仕事ないかなぁ〜笑笑笑

 

労働について考えている

最近、労働についてよく考える。

 

別に仕事で悩んでいる訳では無い。

 

人よりほんの少しだけ得意なことを仕事にできている。

 

1人で暮らすには十分な給料を貰っている。地方なら家族も養えると思う。

 

スキルアップして行けるとも思うし、同僚も良識のある人ばかり。

 

裁量労働かつフルリモートで通勤のストレスもなく、好きな土地に住み続けることができている。

 

ざっと今の僕の恵まれた状況を文字に起こしてみた。間違いなく運が良いと思う。

 

でも、だからこそ欲が出たり、隣の芝が青く見えてしまうのが人間の性(さが)なのかもしれない。

 

今のモヤモヤした感情を一言で言えば「労働者と資本家の格差」に集約される気がする。このことについての考えを思いつくままに書き殴りたいと思い、このブログを書いている。

 

僕のような一般の会社員は、企業と労働契約をして週5日、1日8時間程度の労働に従事していると思う。(もちろん人によって状況が異なるのは百も承知)

 

その労働は、何を目的に行われるのだろうか?

 

労働者の視点で言うと、自己実現だとか社会貢献だとか、労働を過度に神格化したような信念を持って取り組んでいる人もいると思う。

 

少し揶揄したような言い方をしてしまったが、それ自体は個人の考え方なのでなんとも思わない。むしろ羨ましいと思う。そんなふうに労働を考えることが出来なかったから、僕は今この文章を書いている。

 

話を戻そう。

 

僕個人は、現在の日本を始め多くの国における資本主義社会においての労働は、単に資本家がより豊かになるための活動でしかないと思う。資本家の富を豊かにするためのひとつの道具として、僕たち労働者の「労働力」が使われていると考えるのが、1番直接的で理解しやすいと思っている。自己実現だとか社会貢献だとかは、その付属物と考える。

 

目的なのか結果なのかは議論の余地があると思うが、事実としてそのような状況を生み出しているのが今日の社会だと思う。

 

僕たち労働者は、資本家のために労働力を提供し、その対価として賃金を受け取っている。

 

もちろん、資本家たちも労働者が集まらなければ自分のビジネスを継続することが出来ないので、それなりの待遇を用意する。少子高齢化が進んでいる現状や、労働が高度化した今となっては、より待遇が良くなった人も多くいるかもしれない。

 

でも、基本的な構造は変わりようがない。

 

僕らは、資本家の私腹を肥やすために働いている。

 

この一点に僕はモヤモヤしている。

 

みんなこの点を考えないように目を逸らしているようにしか、僕には見えない。

 

まるで、自分だけは死なないとでも考えているような愚鈍さを感じる。

 

もちろん、今の社会を維持・発展させていくには多数の労働者が必要だ。日本国憲法に示された国民の義務は、「勤労」「納税」「教育を受けさせる」義務だ。国はすなわち、人だ。だからこそこの3つの義務は全て、今の国および社会構造を維持・発展させていくための基礎と受け止めている。そしてこれらは、多数の労働者によって支えられている。

 

そう、労働者は国を支えている。間違いなく。

 

ただ僕はモヤモヤしている。

一日の大半を好きでも無い労働に費やし、僅かばかりの賃金を貰い、限られた余暇を楽しみ、そしてまた資本家のために働く。

 

だからこそ僕は、資本家の側に回らないといけない。

 

自分の労働力を提供する活動ではなく、自らリスクを背負って資本を提供し、他人の労働力を使った活動をしなければならない。

 

資本家の側に回ることはもちろんリスクがある。ただ、この今の社会構造に乗っかりながら、僕の生活そのものをガラッと変えて、より豊かに自分の人生を歩んでいくためには、ずっと労働者でいてはならないと思う。

 

今の自分が1番若く、今の時間がなによりも尊いものだから。

 

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ふう。あんまり纏まらなかったし、全部思いついたことをかけたわけではないけど、こんな所にしておく。

 

要は、人の言うこと聞いて働きたくないなって愚痴を言っているだけです。

 

ただ、自分がどんな構造の中で生きているかを考えることは、自分の人生を戦略的に生きていくのに非常に重要なのではないでしょうか。

 

 

おしまい。今日も皆さんの一日が素晴らしいものでありますように。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

からだ

自分の心地の良い生き方の創造を最終目標として、「じぶん」というものについて考えたい。

 

僕たち人間は、考えれば考えるほど身体的で物質的である。僕らは「からだ」そのものである。

 

精神とか魂なんてものは、人間の思考やまだ科学の理解が及ばない現象に対して恣意的なラベルを付けただけの、「からだ」の付属物でしかない。「からだ」無しには成り立たないのだ。

 

人の性格や鬱病による気分の落ち込みも、遺伝子や神経伝達物質などの仕組みで説明がつけられる。少なくとも解明が試みられていて、一定の成果を上げているようだ。もちろん人の思考の全てがそのようなシンプルな枠組みで説明づけられるとは思わないが、僕たちの思考が全て脳内で起こっているのであれば、僕らの思考は全てただの化学現象に過ぎず、外部からの刺激と量子力学的な確率事象によって発現したものでしかないのかもしれない。単に異常なまでの複雑さに隠蔽された現象のことを、僕らは自由意志と信じているようでならない。

 

であるならば、自分の心地の良い生き方を探ることにおいて、もっと「からだ」の声に耳を傾けるべきだと思う。「からだ」から湧き上がる欲望に忠実であるべきように思う。

 

僕の場合はなんだろう。

 

仕事なんかやめて、数学や哲学、文学などに時間を費やして、穏やかな気持ちで日々を過ごしたいと思っているような気がする。

 

だが、これは本当に「からだ」が求めていることなんだろうか?もっとお金を稼いで資本主義的豊かさを獲得することだったりはしないか?

 

いや、それはないな。それだけは言える。

 

ではなんなのか?

 

学問を学び、それを誰かと語らいたいのではないか?学位を得るための議論ではなく、純粋に学問を楽しむ時間の獲得ではないだろうか?そうかもしれない。

 

何のしがらみもなく、学問的な豊かさを皆で共有することではないだろうか?

 

わりとしっくり来ている気がする。

であるならば、この欲求が市場で満たされることは無さそうである。なぜなら、この状態にある僕は大してお金を稼がないので、こんな僕にサービスを提供することは市場の原理に即していないからである。要は、貧乏人に売りつけるものなんて無いってこと。

 

なので僕の場合は、社会との関わり方をもっと工夫して、折り合いをつけて穏やかに暮らせる方法を探った方がいいのだろう。

 

 

社会に育てられた恩を感じて少し後ろめたい気持ちはあるが、それはまた別の機会にする。

 

 

そんなことを、出町柳の川のせせらぎで思う日曜日の昼下がり。では、ごきげんようさようなら。