からだ

自分の心地の良い生き方の創造を最終目標として、「じぶん」というものについて考えたい。

 

僕たち人間は、考えれば考えるほど身体的で物質的である。僕らは「からだ」そのものである。

 

精神とか魂なんてものは、人間の思考やまだ科学の理解が及ばない現象に対して恣意的なラベルを付けただけの、「からだ」の付属物でしかない。「からだ」無しには成り立たないのだ。

 

人の性格や鬱病による気分の落ち込みも、遺伝子や神経伝達物質などの仕組みで説明がつけられる。少なくとも解明が試みられていて、一定の成果を上げているようだ。もちろん人の思考の全てがそのようなシンプルな枠組みで説明づけられるとは思わないが、僕たちの思考が全て脳内で起こっているのであれば、僕らの思考は全てただの化学現象に過ぎず、外部からの刺激と量子力学的な確率事象によって発現したものでしかないのかもしれない。単に異常なまでの複雑さに隠蔽された現象のことを、僕らは自由意志と信じているようでならない。

 

であるならば、自分の心地の良い生き方を探ることにおいて、もっと「からだ」の声に耳を傾けるべきだと思う。「からだ」から湧き上がる欲望に忠実であるべきように思う。

 

僕の場合はなんだろう。

 

仕事なんかやめて、数学や哲学、文学などに時間を費やして、穏やかな気持ちで日々を過ごしたいと思っているような気がする。

 

だが、これは本当に「からだ」が求めていることなんだろうか?もっとお金を稼いで資本主義的豊かさを獲得することだったりはしないか?

 

いや、それはないな。それだけは言える。

 

ではなんなのか?

 

学問を学び、それを誰かと語らいたいのではないか?学位を得るための議論ではなく、純粋に学問を楽しむ時間の獲得ではないだろうか?そうかもしれない。

 

何のしがらみもなく、学問的な豊かさを皆で共有することではないだろうか?

 

わりとしっくり来ている気がする。

であるならば、この欲求が市場で満たされることは無さそうである。なぜなら、この状態にある僕は大してお金を稼がないので、こんな僕にサービスを提供することは市場の原理に即していないからである。要は、貧乏人に売りつけるものなんて無いってこと。

 

なので僕の場合は、社会との関わり方をもっと工夫して、折り合いをつけて穏やかに暮らせる方法を探った方がいいのだろう。

 

 

社会に育てられた恩を感じて少し後ろめたい気持ちはあるが、それはまた別の機会にする。

 

 

そんなことを、出町柳の川のせせらぎで思う日曜日の昼下がり。では、ごきげんようさようなら。